HISTORY

社長の生い立ち

社長の生い立ち

誕生

松山市にある産院で誕生。

私の記憶には無いのですが、私が赤ちゃんの頃に母曰く「うんちを手でつかんだりしてたよ」と・・・
ホントかよ!?って思いました(笑)
あと、借家の玄関に転がって落ちてたりと。。。

そのようなこともありながら、幼稚園に通園を始めました。
かすかな記憶では、幼稚園バスに乗るのが嫌な日があって迎えに来た若い先生に抱えられた私はその先生に対してジタバタさせた足で何度も蹴ってしまった記憶があります。思い出すたびに心の中で「ごめんなさい」と思っています(汗)

そして、「将来何になりたいですか?」と何かの行事に聞かれたときに、私は「警察屋さんになりたいです!!」と答えた記憶もありますw
回想するたびに「警察屋さんって」とノリ突っ込みをしています。

無事に幼稚園を卒園して小学校に入学します。
小学校の思い出は2年生の時に中耳炎になり治すために入院して手術を・・・
が、手術後痛みが取れたら病院内を走り回り仲良くなったお姉さんやお兄さんと遊んでもらったり楽しく過ごしました。子供のパワーはすごいですね。
そして、4年生のころに中耳炎を再発して入院・・・
少し大きくなっていたので暴れることもなく大人しく入院生活を過ごしましたw
そういったこともあり、私は小学校のプールの授業は一切受けれてなくて全く泳げません。なので、海は苦手です。
スポーツに関しては、4年生の時に帝人で発足した『帝人サッカースクール』に入りましたが、遊びと本気のサッカーでは楽しさが違い数カ月で辞めてしまいました。
あと、小学校の思い出は学校創立100周年が在学中にありタイムマシーンを埋めた思い出があります。掘り起こしたらしいのですが、立ち会っていません(泣)

そして、小学校も無事に卒業し中学校に入学しました。
中学校では、授業中に先生にチャチャを入れすぎて授業後に呼び出されて何回も怒られたり・・・
そんなことをしながら、中学2年生の時に住宅を建てる時に地盤調査をすると世の中の動きがなりだして、父親から「その会社を作るから、お前が社長をしろ」と言われ、何が何やら分からなかったのでケンカになり何年も口を聞かなくなりました。
その時に思ったのが「親の仕事は継ぎたくない」と・・・
時は過ぎ、中学校を卒業して・・・

友との出会い

高校は『新田高校』に入学しました。
私が入学するときに制服が『学ラン』から『コシノジュンコ』がデザインしたらしいブレザーになりました。
そこに通っていた時に、忘れもしない1年生の選択授業で一緒になった違うクラスの生徒「A君」に見覚えがあり声を掛けました。

私「昔、○○幼稚園に通ってたよね?」
A「うん・・・」
私「やっぱり!」

その、A君は小学3年生の時に転向した生徒でした。私も特に遊んだりしたことは無かったのですが何故か覚えていて声を掛けました。それ以来ですから20年以上今も付き合いのある人物で持ちつ持たれつの関係ですw
その他にも、高校時代に知り合った人とは何人も縁がありとても充実した高校時代でした。
唯一、修学旅行は最悪で初日にお腹を壊してしまい、訪れる所々でトイレに行かなければならない状況で一緒の班になった友達には迷惑をかけた思い出があります。

何はともあれ、高校も無事に卒業して大学に通うのですが、恥ずかしい話が4年生大学に落ちて『松山短期大学』に入学しました。
そこは夜間の大学なので車で通っていました。ですから、当時は大学へ行った後にコンビニの夜中のバイトをしていました。
当時勤めていたコンビニにはタバコは置いてなくて、今みたいに総菜などの店内調理みたいなものは「肉まん」しかなかったので、現在のコンビニと比べると滅茶苦茶楽でしたねw
でも、生活のリズムが昼夜逆転してしまうので、体調も良くない時も多々ありました。極めつけは、寝すぎて金縛りのようなことも起こったり、寝過ごして大学の中間試験を受けれなかったり・・・

これはダメだと思い、昼のバイトに変更しました。
ガソリンスタンドだったのですが、洗車するのに色々な車を運転出来たのでとても楽しかったです。

祖父との別れ、そして・・・

そして、ガソリンスタンドに勤め始めて1年が過ぎたころに父親から電話がかかってきました。
それは、父方の祖父が亡くなったとの連絡でした。

突然の知らせで、初めて身内が亡くなった出来事でした。トラクターを操作していた時の事故だったそうです。

その時に、親戚一同が集まり私の今後の話が始まりました・・・
「このままバイトして大学卒業して、何するの?」と。

正直、何も考えてなくて何も言い返せませんでした。すると、親戚の一人が「お父さんの仕事継ぐのはどうなん?」と言われて、元々継ぐという選択肢はなかったのですが、話し合いの結果、この日をきっかけに家業を継ぐことになりました。

ガソリンスタンドのバイトを辞めて、実際働き始めると父親から何も教えてくれることは無く、いつも「ワシは人が10年かかるところを1年で覚えてやってきた」と。世に言う「見て盗め」的な話です。

基礎の根本が分からないのに、現場では「分ってるだろ?」言わんばかりの指示を出してきて、分からず迷っていると「何を思案しよんぞ」と言われる始末。
私も溜まらず「分からんから考えてただけで、やり方を教えないのに出来るわけないやろ?」と怒りをぶつけました。すると帰ってくる言葉は「見よったら分かる」の一点張り。ですから、私が慣れて分かりだす時まで父親とケンカが絶えることはありませんでした。

現場の作業がようやく分かりだした頃、今度はお客様との打ち合わせもするようになったのですが、そこでも分からないことがありまたケンカ。辞めたいと時々思うようになりました。

でも、完成するまで作業をしお引渡しをするときのお客様からの「ありがとう」という言葉に救われていました。
仕事をして、お金を頂いてこちらがいうのは当たり前ですが、お客様から感謝をされるこんなすごい仕事なんだと気づきました。

それからは、教えてくれなくても聞きに行き見ては覚えてを繰り返し何とか一人前にお客様との話が出来るようになりました。
そして、月日は流れ仕事を始めて15年が経った2019年長女が産まれました。そのタイミングで、会社の代表も父親から私に代わり全てを見なければならなくなりました。
まず、変えようと思ったのが提案するために何もなかったモノを作って家を『商品』として作ることから始めました。ただ、今まで建てていた住宅を商品化することも考えたのですが、それではローコストビルダーや他の建売をしている会社に負けてしまう恐れがありました。

自然素材との出会い・親として

自然素材との出会い・親として

セールスポイントの無い家は見向きもされない!

安くて良い家は、色んな会社がやっている・・・じゃあ、何をセールスポイントにしよう?って思ったときに、大手のハウスメーカーやローコストビルダーが取り組まない自然素材を軸にしたらどうだろう?と考えました。

でも、闇雲に商品を探すのは時間と労力を無駄にすることになるので、以前から付き合いのある会社さんに相談をしました。
そこで悩みを相談していると、県外にある「自然素材を使った会社さんと繋げてあげるから取引をしてみたら?」と言われました。

私にも子供が産まれて考えることがありました。「このまま、健康な人が住める家」ではなく、「誰もが安心して住める家」を・・・
世の中にはシックハウス症候群やホルムアルデヒドなど建材などから出る成分で困っている人が居る。

その会社さんは、沖縄の珊瑚を使った漆喰『珊瑚のいぶき』や天然系ミネラル99%の珪藻土『ヘルシーカラー』、ビニールクロスではない織物工場で作られる『コットンクロス』など、独自の商品を開発して『健康住宅』の展開をしていました。
中でも塗り壁材の『珊瑚のいぶき』の話で社長さん曰く「類似品は、機械で乾燥させて商品にしている!そうすると発がん性物質を含む可能性があるので、我々の商品は自然の物を自然に乾かしている商品なので他の物と違うんです」とお話しされて、『ヘルシーカラー』についても「化粧品に使われる成分が入っているので本物の自然素材なんです」と仰られて・・・
これだ!!と思い、取り扱いをさせていただけるようになり、すべてを真似ることも考えたのですが自分の会社の商品なので、細かなところの部分は自分で自然素材の商品を探しました。そして、何とか商品化をすることが出来ました。

2代目として

「今までは、父親のやり方でここまでやってきたけれど、ここからは自分が2代目としての考え方とやり方を時代の変化やお客様のニーズに沿って、提案していく!」と心に決めました。

中学2年生の時には考えられなかったことになりましたが、人生がどう転ぶか分からないですねw
先代の考え方と変わらない所があります。「お客様には無理をさせない!住み続けてもらうための提案をすること。」これは家を建てる者として、絶対に守る部分です。

我々も、同じ土地に住まい共に生きる会社や人としての当たり前です。だって、知らない間に持ち主が変わったら寂しいですから。

そうならないように、お客様と「腹を割って話す」つもりで会話をし、お互いに「ありがとう」が言える関係になりたいです。

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